コラム
第一回
播州龍野の土地柄、美しさについては、映画『男はつらいよ〜寅次郎夕焼け小焼け』がよく表している。
この「寅さん、17作目」は、昭和51年(1976)に公開された映画で、日本画の大家(宇野重吉)と芸者ぼたん(太地喜和子)との龍野での邂逅から、物語が急展開する。
「夕焼け雲に想いを託す 寅の心はあの赤とんぼだけが知っている!」のキャッチコピー通り、龍野は国民的童謡の『赤とんぼ』の作詞をした三木露風のふるさととして知られ、「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜」の歌詞はもちろん龍野の情景や郷愁を唄ったものだ。露風は大正10年(1921)にこの歌詞を書いた。そろそろ100年経ち、また『男はつらいよ』の撮影も40年も前のことであるが、その記録写真を見たり知る人の話を聞くと、ほとんどそのまま時間が止まっているようだ。
龍野は古代『播磨国風土記』に記録される「揖保郡(いいほのこおり)」にさかのぼり、室町時代以降の古い城下町であり、こぢんまりとした中世の都会的風景がそのまま田園的風景に囲まれているといった風情だ。平日の昼間など、城下を散策したりクルマで流したりすると感じられるのは、観光地としてPRすればそれこそ全国からの観光客が集まるのに、あえてそれをしない「地元気質」のようなものだ。
急速な経済成長や近代都市化を「あまり良し」としない、おっとりとした気質のうちに感じられる高貴な地元生活感が、霞城町や下川原の城下町あたりを歩くとよく分かる。
龍野に「おばあちゃんち」つまり田舎があり、高校時代は龍野高校に通った知人によると、日常風景の中に本当に美しく綺麗な場面がたくさんあって、けれども地元の人にとっては三木露風の頃から変わらず秋になると群れ飛ぶ赤とんぼも、揖保川とこんもりとした鶏籠山(けいろうざん)のむこうに沈む夕日の美しさも、単線ローカルの姫新線の情緒も、春には桜が秋にはもみじが美しい城下町も、「当たり前」の風景でしかなく、とくに尊ぶべきものでも守るべきものでもないように思ってるように感じる、とのことだ。
龍野は「ものづくりの町」だ。落ち着いた古い城下町には、とりわけ伝統的な食品製造がよく似合う。
淡口醤油で日本一のシェアを誇るヒガシマル醤油の本拠地として有名だが、寛文十二年(1672)の記録によると、酒屋数32軒とあり、その酒造高3,500石は、灘が一大生産地となる以前の伊丹、池田に次いでの醸造地だった。醤油はもちろん酒造りから派生したものだ。その際、近隣の赤穂や網干の塩がその品質を支えた。
また醤油づくりに加え、素麺、乾麺、中華麺をはじめとする麺づくりでも名高い。
よく知られている「揖保乃糸」は、播州素麺の統一銘柄として、兵庫県手延素麺協同組合が地元生産者と販売業者の調整をおこない、その声価を高めることに大いに貢献している。これは幕末藩政時代から農家の副業としてさかんに奨励され、播州に広く普及した手延べ素麺づくりの素地を、明治20年(1887)に「播磨国揖東揖西両郡同業組合」を設立することによって受け継ぎ、製品の改善、品質の向上を啓蒙するともに、製造規格と製品検査基準を設けて粗製濫造を防いだ。戦後になって「兵庫県手延素麺協同組合」と改称し、地域特産品として製品の管理、流通などをコントロールし、生産量は徐々にアップした。
もうひとつの麺づくり、龍野ならではの製麺メーカーが「イトメン株式会社」である。昭和20年(1945)終戦の年に神岡町の水車小屋を借り受けて、石臼製粉を始めたことがこの会社のルーツだ。農林省委託加工工場だった。
伊藤勇氏ほかがその製粉会社を元に、昭和25年に資本金70万円で伊藤製粉製麺株式会社を設立した。軌道に乗ってきた1954年の棚卸し表を見ると、そうめんが売上のほとんどを占め、小麦粉、うどんの順の売上となっている。
昭和1956年には画期的な商品が生まれる。中華即席麺である。これは乾麺製造からヒントを得たものだ。機械で製麺された麺は、木製の蒸し器で蒸された後、手作業で麺をほぐして成形枠の中に入れられ、屋外に天日干しされた。雨が降り出そうものなら、社員全員が仕事を中断して屋内に取り入れたという。製品はセロファンに筆で糊をつけながら手作業で包装された。
1958年にはその中華即席麺にスープをつけた「トンボラーメン」を発売。スープは試行錯誤の末、塩、コショウ、ゴマ油を半練り状のだしに混ぜ合わせたもので、女性のスタッフが調味料の部屋に並んで、スプーンですくってモナカの皮のなかに詰めて、アメ玉のようにセロファンで包んだ。これも一つ一つが完全手作業だった。
翌年「トンボ」にちなんだ「ヤンマーラーメン」を2食入りで発売。メンマや椎茸、麩のかやくも付いてると大評判で、残業、休日出勤の人海戦術で対処しても、製造が間に合わないぐらいに売れた。
麺自体にスープを浸透させる「調理・味付不要」のフライ麺の発明で、「インスタントラーメン」の旗手となった日清食品の「チキンラーメン」は、同年の昭和33年に誕生しているが、「明星チャルメラの登場よりはうちのヤンマーラーメンのほうが早かったし、すごい勢いだったそうです」と、即席ラーメン黎明期のことを代表取締役社長の伊藤充弘さんは語る。
昭和38年には本格的な袋入り即席麺時代到来の一歩先を行くように、フライ麺の設備を導入、これが超ロングセラー「チャンポンめん」を生む。ダシの旨みを追求した結果、エビ、椎茸を加えたスープも好評で、ノンフライ麺のヤンマーラーメンとチャンポンめんの2本柱でフル操業が続く。
1963年に資本金を2倍の1,000万円に増資したが、1965年には3,000万円となり、資本金が2年で3倍になった。その頃のことを伊藤充弘社長は「なんぼつくっても足らんので、毎朝問屋さんのトラックが門の前で待っていたとのことです」と語る。
日本即席食品工業協会によると、1963年末には即席ラーメンのメーカー数が全国で100社あまりだったのが、1965年には一挙に360社になった。生産数量で見ると、イトメンの「トンボラーメン」や「チキンラーメン」が売り出された1958年は1,300万食であるのに対し、1963年は20億食、1971年に「カップヌードル」が売り出される前の1970年ともなれば36億食が生産された。狂乱的な伸び率である。
そんななか、イトメンの「チャンポンめん」は、超ロングセラーの即席ラーメンとして愛され続け、日清食品、東洋水産、サンヨー食品、明星食品、エースコックの5社で90%のシェアを寡占するなか、かわらず地元や北陸地方で高いシェアを守っているのは、なんだか龍野という土地柄や地元の人びと気質に重なる気がしてならない。
次回は「チャンポンめん」のイトメンの製造現場を取材して、そのレポートを中心にお届けする。
江 弘毅(こう ひろき)
<編集者・著述家>
雑誌・新聞の連載・執筆、京阪神の「街」と「食」「岸和田だんじり祭礼」中心の書籍編集のほか、NHKラジオ第1放送『かんさい土曜ほっとタイム』などにレギュラー出演。
岸和田だんじり祭の祭礼関係者であり、2003年五軒屋町若頭筆頭。その日記連載のブログ(HP「内田樹の研究室」内の「日本一だんじりなエディター」江弘毅の甘く危険な日々)が単行本化されたことから「だんじりエディター」として取り上げられることがある。2010年五軒屋町曳行責任者。
神戸学院大学人文学部客員教授(2005年)、京都精華大学人文学部非常勤講師(まちづくり論、2007年 - 2010年)、神戸女学院大学文学部非常勤講師(2008年 - )。
2014年の140BのWEB連載をきっかけに自らのカメラで写真も撮り始める。
●主な著書
岸和田だんじり祭だんじり若頭日記(晶文社,2005年)
「街的」ということ〜お好み焼き屋は街の学校だ(講談社現代新書,2006年)
京都・大阪・神戸 店のネタ本(編著、マガジンハウス,2006年)
岸和田だんじり讀本(編著、ブレーンセンター,2007年)
街場の大阪論(バジリコ,2009年. 新潮文庫,2010年)
ミーツへの道 「街的雑誌」の時代(本の雑誌社,2010年)
「うまいもん屋」からの大阪論(NHK出版,2011年)
『大阪人』増刊号「ちゃんとした大阪うまいもんの店」(吉村司と共著、大阪市都市工学情報センター,2011年)
飲み食い世界一の大阪 〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの(ミシマ社,2012年)
有次と庖丁(新潮社,2014年)